大学受験ときに現代文のための勉強として、小林秀雄『考えるヒント』や柄谷行人『隠喩としての建築』などを誰もが読んだと思います。批評家や哲学者というのは、すぐれた思考を出来るはずの人ですが、時として結論を間違えます。
例えば、『考えるヒント』には次のようにあります。
(全知の存在が二人で勝負したら、将棋という遊戯は成立しなくなる、という中谷宇吉郎との対話の後で)
ポオの常識は、機械には、物を判断する能力はない、だから機械には将棋は差せぬ、と考へた。(略)
(電子計算機の原理や構造についても)ポオの原理で間に合う話だ。(略)ほんの少しでも、あれかこれかを判断し選択しなければならぬ要素が介入して来れば、機械は為すところを知るまい。これは常識である。常識は、計算することと考へることとを混同してはゐない。将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはゐない。熟慮断行といふ全く人間的な活動の純粋な型を表してゐる。
この結論が間違っていることはコンピュータ将棋が人間の棋力を越えようとしていることからも明らかですが、当時の“常識”ではそこまで考えが至らなかったのでしょう。そもそも枝刈りなしでもゲーム木の探索深さを深くしていけば神の指し手に近づいていくことは自明で、当時であってもそれくらいのことはわかったと思うのですが、氏にはそれが理解できなかったのでしょう。
私が受験生だった当時、上の本を読んだ私は、「この人はなんて頭の悪い人なんだろう」と思いました。小難しい批評用語を駆使して考えていても、批評家というのは容易に結論を誤るんだなと。
また、柄谷行人氏の『隠喩としての建築』は、ゲーデルの不完全性定理を元にした現代批評というか、エッセイのような本なのですが、氏が、この不完全性定理の証明を理解できていなくて(氏は高校程度の数学が理解できない)、哲学者の卓越した思考能力をもってすれば数学者のそれを容易に超えられると思っていた私は激しく幻滅したのを覚えています。
哲学的なメタファーや思索が現実を捉えるのに優れているケースも多々ありますが、厳密な記号操作が必要となる領域においては哲学者の言葉は数学やコンピュータサイエンスのそれには到底敵わないんだなという、まあ、当たり前のことを知ったわけです。
高校数学すら出来ないようなおっさんが酒飲みながらグダグダ言ってるのが現代評論だと思えば、受験国語でそういう文章が出てきても、「この頭の悪いおっさんが何を言いたいのか読み取ってみよう(どうせ言ってる内容は間違ってるんだろうけど)」という気になります。そう気づいてから、私は現代文の問題を解くのが楽しくなったのを覚えています。
それまでの私は、「偉い哲学者や批評家が書いた文章だから、それらは論理的であり、結論も正しい」という前提で考えていたため、正解がわからない(もしくは間違ってしまう)ことが多かったのですが、「こいつらみんな馬鹿だから内容も結論も間違いだらけだろ!でも彼らの言いたいことを掴むことは俺様には出来るはず!」と考えるようになってから正答率がかなり上がりました。ちなみに私が現役当時、センター試験国語の現代文は満点とれました。
以上、受験生の皆さんの参考になれば幸いです。(念のために言っておきますと、他人を見下せば国語の点数が上がるという話ではありません。どんな偉い人の書いた文章でも結論が間違っていることは多々あり、にも関わらず、その人が言いたい内容を理解することは可能であるということです。)
以下は屁理屈
コンピュータ将棋が人間の棋力を上回っても、それは将棋を「指してる」ことにはならない。
なぜなら、「将棋を指す」とは「考える」ことである。
ここで、「考える」ということは計算することではなく、熟慮断行といふ全く人間的な活動のことである。
よってコンピュータは将棋を「指せ」ない、ただ指しているように見えるだけである。
なぜならコンピュータは人間ではないから。
すなわち、もし完全な人工知能が存在し得るとしたらそれは人間とイコールである。
これは常識=コモンセンスである。
まあ、世間の人のコモンセンス(=共通見解?)は、現実的にはそれぐらいの認識にとどまっているのかも知れませんね。
小林秀雄さんも喩えに将棋を持ち出したのが失敗だったようですね。将棋はルールが明確で勝ち負けがハッキリしてるから逃げようがない。
これが主観に左右される採点競技であれば「機械の作った芸術作品など認めん!」と平行線で結論を先延ばしできそうですが…。
将棋の場合、素人にはまったく理解できない高レベルな対局でも、最後に勝敗が決まれば客観的に優劣が分かります。
でもコンピュータ作曲が進歩して、人類には魅力が理解できない高度な楽曲が生まれたら、それはどう解釈するべきなんでしょうね。
ゴールを変えて「人類の知能レベルに合わせた最も人類受けの良い楽曲こそが良い楽曲」という方向性で進歩するのも、餌を与える家畜として扱われているようで、それはそれでちょっと悲しいです。
もちろん感性は人それぞれなので「被験者Xが最も好む楽曲x’」を追求することになるんでしょうが。
客観的な世界では現実をつきつけられ、主観の世界に閉じこもればビッグデータの家畜になってしまう。
枠からはみ出た狂人になることでしか人間らしさを維持できないのかなと思いました。
> でもコンピュータ作曲が進歩して、人類には魅力が理解できない高度な楽曲が生まれたら、それはどう解釈するべきなんでしょうね。
チューリングテストみたいなものを通過すれば、まあ、その分野においては人間のアウトプットと大差ないのかなという気はしますが。
コンピューティングリソースが発達すれば考える必要って無いですよね。
全幅検索して自分の主観に合った手を選択すれば勝負になりますから。
少ない情報から最善手を選択する人間と違ってコンピュータには全部見えたうえで選択する未来があるんですよね。
まだ先の話ですが。
まぁ、万能解と最適解の間で最適解を選ぶ人間と万能解も読めるコンピュータの戦いと言う事でしょう。
人間は万能解は冗長としてそこまで詠みませんから負けちゃうんですけどね。何事でも。
なんか一人だけすごく内容の薄い長文コメントを書いてたのだけど、本記事の趣旨を理解できてない彼は少数派だと思うので、こういう少数派のためにコメント欄がぐちゃぐちゃになるのは嫌なので、ばっさり削除しました。
本人様へ
内容の薄い長文は自分のブログにでも書いて、このコメント欄にそのURLでも書いてくだされ…。
また、消したコメントは保存してあるのでもし必要ならメールもらえればメールで送ります。
お忙しい中ありがとうございました。
私はいっときでもやねうらおさんとお話出来たことを嬉しく思っていますし、不思議なたいけんでもありました。やねうらおさんを、うらんでもおりません。
興味深い議題であると思いましたが、理解し合えなかったことについては残念に思います。ですが、それもしかたがないと思います。
メールも必要ありませんし、このコメントも、読み終わりましたら、消して頂いても構いません。
「フレーム問題」については後日、記事として書くので興味があればそちらもどうぞ。なお、その記事に対しても長文コメントは要りませんよ?(笑)
偉い先人の言ったことにも疑ってかかった方が良さそうなことも有る…ということかなと思いました。
哲学者の言ということで思い出すのは(ちょっと無理矢理ですが)、チャルマーズのハードプロブレムの考えについても、ボクは非常に疑っていますが、間違っている可能性も有りますよね。
ハードプロブレムの考え方については私も懐疑的であります。それにしても、人間の脳みたいなものは猿の脳でも解剖すればすぐに何がどうなってるかぐらいわかりそうなものですが、物理学的・化学的な仕組みを解明するのは容易ではないんでしょうね。もうちょっとこのへんの分析手法が発達しないと駄目なのかな?
レスいただけると思っていなかったので、嬉しいです。しかも、ハードプロブレムを正面から懐疑的と仰る方はとても少ないので、もっと嬉しいです。ボクのおよその考えは http://ow.ly/i/7Tl9B です。(この記事から内容が離れましたね。すみません。)
コメント欄になぜかチャーマーズの名前があったのが気になったので。チャーマーズは「サーモスタットにだってそれなりの意識はあるだろう」という考えかたなので、「将棋ソフトは感情を持っている」というお考えとも近いかもしれません。
小林・柄谷は哲学者としては素人なので、真面目に読むのは酷なんでしょうね。
私はコンピュータはいまだに将棋を指してはいないと思います。
コンピュータの将棋の進みは、あらかじめ敷かれたレールを転がる球のように、人の下した判断の集積に基づいたレールの上を進んでいる。
この球が進むのを見て、球自身が判断して進んでいると思いますか。
私は球の進みは自然現象であると思うのです。
判断は自然現象を見越して球をそう動くようにした者にあったと思うのです。
ですから将棋はコンピュータではなくプログラマー達が、プログラマー達の残留思念が、指しているのではないかと考えるのです。
これは屁理屈なのですか。
> プログラマー達の残留思念が、指している
文学的で大変よろしいかと存じます。
すみません。内容のない長文ということで消されてしまうかも知れませんが…
このブログの記事って、実はかなり奥が深いと思うんですよね。
私もゲーテルの不完全性定理は理解できないですし、文系側人間なのです。それでも、やねうらお氏のブログを読んで、「そんなの、時間や一定の回数で検索を打ち切ればコンピュータにも将棋を指せるにきまってるだろwww小林秀雄テラバカスww」と思ってたのですが、
その後いろいろあって、いやいやそうでもない、意外と小林ちゃんは深いことを言っとると思うようになりました。
(それは、小林ちゃんが意図的に深いことを言ったのかどうかは別問題です。まぐれ当たりで、たまたま言ったことが深かった可能性のほうが高いと思います。)
どういうことかというと、人工知能を、実際の社会活動に組み込もうとすると、「時間切れ」や「検索回数制限」のような指標ではなく、「人間が納得するかどうか」が一番大切になってくると思います。
変な話、本人が納得済の話なら、10億円借金をこさえても、半身不随になっても、問題がないわけです。
イケメンが女性の髪型を褒めると、ますますイケメンの株が上がるのに対して、オヤジが女性の髪型が褒めると、セクハラだといって大問題になるわけです。
「人間の納得」が定点で、そこから逆算して、すべてのものが変化しうる。
小林秀ちゃんの言葉を「将棋というのは、考える自分と、勝負する自分が交渉して、なんとか手を打って合意する過程なんだよ。これは人工知能にはできないだろ。(ドヤァ…」という風にとらえると、
これは来たるべき人工知能の社会応用の問題点についてなかなかに本質的な内容を突いてるな…と思うわけですね。(まぐれだけどね)
横から失礼しました。
もちろん、人間の営業マンの行動様式を完璧にコピーしたら、人間を納得させられるロボットも作れると思いますよ。
でも、ロボットを納得させられるロボットを作れるかと言ったらよくわかりません。結局、有効に機能する「信頼」とか「納得」って、「生存本能」に直結していて、生存しなければならないという目的がそもそもないロボットに、いくら「信頼」とか「納得」のギミックを埋め込んでも意味はない気がする。
さらに進むと生存しなければならないという目的も特になく、結局自己増殖の結果、生存できる個体だけが生き残ってるだけの話なので、こうなるともう、最初の人工知能の社会応用というスタート地点から遠すぎて、よくわらかなくなってくる。
完璧なコンピューター同士が将棋をした場合、先手後手が決まった段階ですでに投了になる(王手までルートが一つしかない)ように思えるんですが、これって将棋って言えるんですか?
人間同士ならあえて悪手を指すこともできそうですが…
投了までの手順は複数あると思いますよ。攻め方、最短、受け方、最長を選んだとしても複数ある可能性が高いですし、攻め方が最短を選ばない/受け方が最長を選ばないという選択も考えられますし。
こんにちは。ホンダエツロウと言うものです。
自分なりに小林秀雄さんの「常識」などを読んだものを書いてみました。
https://kobayashihideo-memo.blogspot.com/2019/11/blog-post_9.html
もし、お時間があるときにでも、将棋AI開発の第一人者であられる、やねうら王さんに感想など書いていただければ、この上なく光栄なことと存じます。
どうぞよろしくお願いいたします。
拝読いたしました(`・ω・´)b
まあ、コンピュータ将棋に関して言えば、強くするのが開発の主たる目的であって、人間(の思考形態)に近づけるのがその目的ではなく、人間に近づけるという制約を取っ払うことで効率的に思考させることができる意味もあるので、汎用人工知能に関しても、ほとんどの問題領域では、人間に近づけすぎないほうが効率的に処理できるでしょうし、汎用人工知能を待つまでもなく…みたいな部分はありますね。
お忙しい中、お時間取っていただき、拙文を読んでいただいた上、貴重なご意見ありがとうございました。
私なりの「考えるヒント」として心に刻み思考を深めて行く糧にしたいと思います。
本当にありがとうございました。
また何かありましたならよろしくお願いいたします。