将棋ソフトを開発して3000万円損した話

「大人の数トレチャンネル」(YouTube)に私が出演した時の後編の動画があまり再生回数が伸びてないので改めて紹介をさせていただく次第である。

このブログでも以前ちらっと書いた、「将棋ソフトを開発して3000万円損した話」が出てくる。(詳しい内容については動画をご覧いただきたい)

それとは関係ないのだが、動画の内容に関連して、いくつか補足しておきたいことがある。

AI界隈では、「プロ棋士 VS 将棋AI」という構図が「人間 VS AI」の縮図だと言われることが多々ある。例えば、これは「将棋AIのようにAIが人間を打ち負かしたあとは、○○○な未来になっていく」みたいな文脈で用いられる。

しかし、人間が将棋AIに抵抗してきた歴史について当事者視点で語ってあるブログや書籍はあまりに少なく、そのへんの情報がまるで伝わっていないように思う。

そこで、本記事では私が当事者視点でだらだらと書いていく。

まず、将棋AIとプロ棋士の棋力とが拮抗していた2013年当時のことから。

GPS将棋が2013年に開催された第二回電王戦第五局において、三浦弘行八段と対局し、iMac 666台を含む679台のコンピューター・クラスターを利用した結果、102手で勝利を収めた。

このiMacは東大の計算機実習室(?)にあったパソコンであり、そんなに高いスペックのパソコンではないので、クラスターを組んだところでさほど強くはなっていなかった。(はずである)

しかし、この679台という数字だけが独り歩きした。

例えば、私が奈良女子大の篠田正人先生(将棋の合法手の最大が593手である証明をされたことで将棋AI界隈では有名)が同大学で一般向けのセミナーを開催された時に聴講させてもらいに行ったのだが、その質問タイムにはお婆さんが、この三浦八段とGPS将棋の対局について触れ、「人間は一人なのに679台も使うのは卑怯ではないか」と言っていた。

私は、「そんなお年を召した方すら注目している電王戦の影響力って凄いなー」と感心しつつも、「卑怯」という視点にどことなく引っかかるものがあった。

この話題について私は他の開発者と話したことがある。例えばAperyの平岡さんは当時「パソコン1台だとしても、CPUには複数コアが存在するが、それはいいんかな?(679台が卑怯だと言う意見を認めるなら対局は)1スレッドでないと駄目なんじゃないかな?」みたいなことを言っていた。

私もそれには同意であった。679台というのは見かけだけの台数で、しかもそれによってソフトの棋力はあまり伸びていないわけである。それよりは1つのCPUが複数コアで構成されていて、複数スレッドで並列探索しているのがどうかなのと問うべきであったような気はする。それを言うと、人間もすべての脳細胞を用いて並列的に思考しているから卑怯ではないのか?それなら、脳細胞の数とCPUのLogic Element(論理素子)の数とを比較するだとか、演算性能的な何かで比較するだとか…などと、この話題は開発者の間でも大いに盛り上がったのを覚えている。

まあ、それはそれとして、このような「コンピューターは(人間に比べて)○○だから卑怯だ」という論法は、このあと何百回と聞くことになる。

例えば、「コンピューターは人間より消費エネルギーが多いので卑怯だ」というのも何度も聞いた。

参考程度に私の当時に行った試算を書いておくと、成人男性が摂取するのは1日2000kcal程度と言われており、1cal ≒ 4.18J(ジュール)なので、2000kcal = 8360kJ。1Jは1W×1秒に等しく、1日は86,400秒なので、8360×1000/86400 ≒ 96.76W。

CPU(当時TDP65W程度)より人間の方が消費エネルギー多くないか?と思った。(いまだと消費電力5Wのスマホで将棋AIを動かしてもトッププロより強いので、人間とAIの消費エネルギーという観点でもAI側の圧勝ではある。)

それ以外にも「探索局面数が人間と同じじゃないから卑怯」という論法もあった。

例えば、三浦八段と対局したGPS将棋は679台で1秒間に2億7千万局面を探索していた。このことから「将棋ソフトは1秒間に1億手(以上)読む」と言う言葉が独り歩きした。(「1億手(以上)読む」とされるコンピューターと比較し、深く鋭い読みに定評がある佐藤康光九段を評して「1秒間に1億と3手読む」と言われることがあるのは、このへんが由来か?)

ともかく、そのように探索局面数が人間と比較し、いたずらに多いことを「卑怯」と見る向きも少なくはなかった。

例えば、ドワンゴの川上量生会長(当時)は、囲碁AIの発表会(?)で(囲碁ではDeep Learningで探索局面数が従来のソフトより少なくなりつつあるという文脈で)「将棋ソフトも局面数を等しくしてどのソフトが強いのかを競ったら面白いのではないか」みたいな発言をして(うろ覚え)、その場にいた山本一成(Ponanzaの開発者)に窘められていた。

しかしこれは、いまだからこそやってみる価値があるのではないかと私は思う。

と言うのも、Deep Learning系の将棋AIでは、評価関数にはたいていResNetというアーキテクチャが使われているのだが、このResNetはブロック数を増やしていくと推論に時間がかかるようになるが、それに伴い盤面評価の精度が格段に上がっていく。Policy Networkと言って、次にどの手が指されるかという確率を出力しているのだが、この精度もブロック数の増加に伴い格段に上がっていくので、40ブロックのResNetを用いた場合、探索なしでPolicy Networkの出力に従い指すだけで将棋倶楽部24でR2800超えになる。(二番絞りというソフトが達成)

もう少しブロック数を増やすと探索なしでトッププロを超えることは間違いなさそうで、探索なしで最強の将棋AIを決める大会があっても面白いんじゃないかと私は思う。例えば、チェスAIの世界では、探索なしでグランドマスターレベルに到達した(2024年)が、将棋AIでもやってみる価値はある。

チェスAIが探索なしでグランドマスターレベルに到達した件 : https://yaneuraou.yaneu.com/2024/02/08/grandmaster-level-chess-without-search/

また、「卑怯」と言うと言葉は悪いが、AIと人間とが戦うときに「公平であるか」(何かの基準において同じ条件であるか)という観点は重要だ。

例えば、人間と将棋AIが同じ局面数だけ考えた時にどちらが強いのか(いまやおそらくAIの方が強いのだが)、もしAIの方が強いとしたら、AIの方が大局観でも人間を上回っていることになる。じゃあ、人間の大局観とはResNetの何ブロックに相当するのか。人間の大脳皮質は6層だが、それはResNetの何ブロック分の働きをしているのか。ResNetと人間の大脳とでは、どちらが効率が良いのか。

そういうことを考えていくときに、条件が揃っていないと比較ができない。条件を何らか揃えることは科学的な観点からも重要なのだ。

しかしそのように条件が揃っていないことを「卑怯」だとして、「プロ棋士はまだ将棋ソフトに負けていない」と負けていないことアピールするための道具として将棋ファンに長らく使われてきたこともまた事実である。

将棋電王戦(2013年~2017年)でプロ棋士がぼこぼこに負けても「1回の対局ではわからない」みたいに言う将棋ファンは山程いたし、開発者が「レーティング計算上は100回やっても2,3回勝てるかどうかですね」とか言っても、「レーティング通りになるとは限らない」みたいに言う将棋ファンも山程いた。そして恐ろしいことに、いまだにそう主張する将棋ファンも山程いる。実際、当時、対局するソフトの事前貸し出しを受けたプロ棋士が、(対局後の記者会見で)「練習対局で100回やっても2,3回ぐらいしか勝てなかった」と言っているにも関わらずである。

まあ、開発者も(持ち時間が長い場合や、レーティングがある程度離れている時に)レーティング通りの勝率になるかは懐疑的ではあったが、事前貸し出しを受けたプロ棋士の発言から、「おおよそレーティング通りの勝率になるんだな」と逆に驚いたぐらいではあるが。

ともかく、そのように人間とAIとの対局の条件を何らか揃えて興行的に楽しめるようにしようという力学が働きつつも、「人間とAIが戦うなんて、人間と車が走りで競争するようなもの(だから、本来敵うはずがない)」という勝てなくて当然みたいなちゃぶ台返しもあった。

知の天才とも言われた小林秀雄はその著書『考えるヒント』に「機械には、物を判断する能力はない、だから機械には将棋は差せぬ」と書いているが、まあ、それが世間の常識であったわけである。小林秀雄ほどの人間をして、そうだったのである。

小林秀雄の言う常識www : https://yaneuraou.yaneu.com/2015/03/04/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E7%A7%80%E9%9B%84%E3%81%AE%E8%A8%80%E3%81%86%E5%B8%B8%E8%AD%98%EF%BD%97%EF%BD%97%EF%BD%97/

それがいつしか、「機械に人間が敵わないのは当たり前」と言い出す人が出てきて、その発言が広く受け入れられるようになってきたわけだ。

例えば、橋本崇載八段(当時)は、2016年の電王戦で山崎八段が将棋AIに負けた時、「彼は将棋で負けたのではなく将棋に似たゲームで負けただけ」とツイートした。

「将棋に似たゲーム」とは何なのだろうか? : https://yaneuraou.yaneu.com/2016/05/24/%E3%80%8C%E5%B0%86%E6%A3%8B%E3%81%AB%E4%BC%BC%E3%81%9F%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%A0%E3%82%8D%E3%81%86%E3%81%8B%EF%BC%9F/

言いたいことはわからないではないが、残念ながら将棋は将棋である。

このようにプロ棋士が将棋ソフトにはもう勝てないと完全に白旗を上げたのが2017年ごろだ。御本人たちが「もう勝てない」と言っているのに、その将棋ファンは「○○先生が将棋ソフトなんかに負けるわけがない」みたいに踏ん張っていたわけである。そして、いまだにそんな主張をする将棋ファンもわんさかいる。御本人が白旗を上げているというのに、お前はその先生の何を知っているというのだ?応援する気持ちはわからなくはないが、自分が買った株が大暴落して、「いやいや、まだ持ち返すでしょ」とか神に祈っている人じゃあるまいし。御本人が「勝てない」と言っているのだから、それを認めてあげるのもファンとしては大切なことなんじゃないかな。

ともかく、将棋のように勝敗が白黒はっきりつくような競技ですら人間がAIに負けたことを受け入れられない将棋ファンがいっぱいいるような状況が長年続いたわけである。(そしていまもいる)

さらには「将棋ソフトはプロ棋士の棋譜を使っているんだから、プロ棋士に感謝しろ」みたいな将棋AI開発者に対する将棋ファンからの感謝の押し売りもあった。(いまだにある)

もうこれを書くのは何度目かわからないが、いまどきの将棋AIは強化学習と言って(人間の棋譜を一切使わずに)ゼロから強くできる。やねうら王も人間の棋譜は一切使っていない。使ってもいないものに対して、一体何の感謝をしろと言うのだ。

まあ、そのように、プロ棋士がAIにぼこぼこに負けても、まだ人間は負けてない、679台使うのは卑怯だ、消費エネルギーが違うのは卑怯だ、探索局面数が違うのは卑怯だ、これは将棋とは違うゲームだ、プロ棋士の棋譜を使っているくせに何様だ、開発者はプロ棋士に感謝しろのように(一部の?)将棋ファンたちは執拗に踏ん張り続けてきたのである。(それらすべてが無駄な議論と言うつもりはない)

これが「人間 VS AI」の縮図だと言うなら、白黒決着がつく領域ですらこの有り様なのだから、白黒決着のつかない領域でどんなに泥沼の議論が展開されるのか、推して知るべしである。

将棋ソフトを開発して3000万円損した話」への9件のフィードバック

  1. 人間 vs AIで言うと「森下九段vsツツカナ」の秒読み10分・継盤使用可も特徴的な対局だったかと思います。
    確かあの時、森下九段は「ミスが無ければAIには負けない」といった趣旨の発言をされ、実際に引き分けでした。
    この辺の結果を見ると、条件によっては、まだまだ人間とAIは互角なのでしょうか。
    それとも、あの対局は将棋とはちょっと違ったゲームだったのでしょうか。

    • 森下先生のように継盤があった方が思考が深くなるタイプのプロ棋士はおられるのかも知れないですが、それによって棋力が上がると言っても+R100程度でしょうから、あの時から+R1000以上強くなってる将棋AIに勝つのは難しいでしょうね…。

  2. はじめまして。そこそこその筋では有名な詰将棋作家松田圭市です。本当に人の信仰というのは変わらないもだなとつくづく思います。というより棋士が天才と持ち上げるNHKの将棋フォーカスなど報道して良いものなのでしょうか?第二次世界大戦中のプロパガンダを思わせるほど将棋民は信じているようで恐ろしくなります。

    • プロ棋士が「天才」(特定の分野で高い才能を持つ)は正しくて、「天才ならば他の知的作業においても稀有の才能がある」かのように思っている人達が間違っているような気も…。

  3. 動画面白かったです。『大人の数トレチャンネル』というのがものすごく難しいというイメージがあったので嫌厭してました。

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